【不定期コラム】ON THE ROAD

“この道の彼方 約束されたはずの 場所があると 信じて行きたい
もういちど 孤独に 火をつけて”

いと、まほろば『もうひとつのOVER THE MONOCHROME RAINBOW』2/15-17@ラゾーナ川崎プラザソルhttp://itomahoroba.com/

2013年2月17日。この企画の全日程が終了した。千秋楽に訪ねて来てくれた、この舞台の原作である『OVER THE MONOCHROME RAINBOW』の生みの親である福田裕彦さんに観て頂き『大丈夫だった』と初めて感想を貰った時に、忙しさにかまけてすっぽ抜けていた記憶が蘇った。

―ああ、そうだった、俺はこれをやる為に始めたんだった―

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『OVER THE MONOCHROME RAINBOW
本作を発案したのは、浜田省吾のツアー・メンバーであるキーボード及びシンセサイザー奏者の福田裕彦。脚本・音楽・総監督を務めている。
1998年から2001年まで続く浜田省吾のロングツアー「ON THE ROAD 2001」に参加していた福田が、ホームページ上でツアーの舞台裏などを綴った日記を書いており、それを見た浜田に「福ちゃん、これ面白いから、まとめて本にしなよ」と提案された。しかし、福田は「そんなものを出しても、売れるに決まっている。どうせなら違うことをやりたい」と考えてこのゲームを制作した。
浜田省吾が主人公となり、その歌声によって世界を救うという、従来の浜田のイメージでは考えられないような世界観になっている。また、アニメーション部分では浜田も本人役で声優として出演している。
(ウィキペディアより抜粋)
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福田さんとの出会いは2009年の3月。現在公開中の映画『デッド寿司』の井口昇監督作品『ロボゲイシャ

当時、まだ役者しかしておらず、ちらほらと映画の仕事が舞い込んで来た時に「手が足りない。経験なくてもいいから現場制作として参加してくれ」と無理矢理ねじ込まれた状況下だった。舞台演劇でもまともにスタッフとしての経験がない俺にとっては地獄以外の何者でもなかったが現在の仕事の基礎はここで培った部分が大きい。この話は置いといて…

役者ではない、初めての映画現場での仕事。その前に、演技事務としてデスクワーク的な事は経験していたが、現場に張り付く事が少なかったので、現場仕事は実質これが初。右も左も判らない状態で、とりあえず行ってみた制作スタッフの顔合わせに行った時に、「音楽担当の福田です」と言われた時に初めて気がついた。実は前もって貰っていた台本に名前が書いてあったが、全く気に留めていなかったのと、LIVEの時とは風貌が違ったので、確認できるまでに時間が掛かった。

「あれ、おかしいな…見覚えがある人が居るぞ…
うわあしまった…間違いない、あれは絶対に福田裕彦や…どうしよう…」

いつも観客として観ている側だったので、この現場で出会う以前から、俺は福田さんを知っていた。まさかこんな所で出会えるとは思っていなかったので、全く心の準備が出来ていない俺はちょっと呼吸困難になった。

小劇場の役者風情が浜田省吾と同じ空気を吸おうなどという事のおこがましさは充分に承知しているし、当時は冗談半分で「俺は浜田省吾に会う為に芝居やってる」なんて意味不明な事を言っていたが、ホントはそんな事が叶うなんて1ミクロンも考えていなかった。浜田省吾にかなり近い人間、しかも一番趣味が近く、面白い事をしている人だったので、同じくらい会いたいなと思っていた人物が目の前に居るワケだから無理もない。

とりあえず『福田裕彦さんですよね!LIVEでいつも観てます!』と鼻息荒げた状態で真っ先に挨拶をしたら、少々ビックリされたのをよく覚えている。映画の現場で浜省ファンに出会う事はかなり稀だそうだ。音楽担当として、現場には殆ど顔を見せないのだが、時たま視察に来る事があったので、制作進行だった俺は現場との橋渡し役として、福田さんとやり取りをしているうちに親しくさせて貰うようになった。撮影中は福田さんが手掛けていたサイトのコーナー、天外魔境2、そしてOVER THE MONOCHROME RAINBOWの事。思いの丈をぶつけまくっていた。現場仕事そっちのけである。

そうしているうちに、実現については不確定だけども、OMRをプレイした10年前に思いついた企画の事を話してみた。
『あの…福田さん、実は発売された当初から考えていた事があるんですけど…OMRを舞台演劇にする事って出来ますかね?』
『うーん、難しいね。浜田の名前は一切使えないし』
福田さんにとっては、何気ない一言だったと思うのだが、当時の俺は少し重く受け取ってしまい、もしOVER THE MONOCHROME RAINBOWを舞台化するのであれば、色々な手続きや権利を所有している所への交渉、それ以前に公演を主催するカンパニーとしての実績が必要だと思った。まだ力が足りない。力を付けてから改めて申し入れようと思った。

2003年当時、ゲームタイトルの舞台化というのは皆無の状態だったと思う。OMRは、浜田省吾が主人公だが「武力ではない方法で世界を救う」というテーマはゲームよりも演劇やミュージカルに近く、普遍的なテーマとして新しいスタンダードになるのではと考えていた。

当時はまだアマチュア劇団に居た事もあり、まさか自分で公演を手掛けるとは思っていなかった。劇団を辞めた時は23歳、経験を積もうと思い、武者修行感覚で舞台演劇のステージを年間100本以上、そんな中で、スタッフとして関わるようになったラゾーナ川崎プラザソルにスタッフとして参加した2006年。こけら落とし期間に平日2日間を使って、自由に公演が打てる(会場費無料)という事で、はじめての演出、プロデュース公演を手掛けた。昔テレビドラマで浜田省吾が主題歌を歌っていた『愛という名のもとに』の青春群像劇をモチーフにお笑い要素があるコントを繋げたオムニバス作品を上演した。

そして2009年の10月、予定していた企画が倒れてしまい、キャンセル料を払うか、代替えのイベントを打たなければならないという状況の中で生まれた企画が『ぼくのぼうけんのしょ』シリーズだった…

※写真は2009年に福田さんと一緒に撮ったもの。痩せてた

そして2009年の10月、予定していた企画が倒れてしまい、キャンセル料を払うか、代替えのイベントを打たなければならないという状況の中で生まれた企画が『ぼくのぼうけんのしょ』シリーズだった…

何の変哲もないサラリーマンが、テレビから出て来た「勇者をサポートする人」にゲームの世界に連れて行かれ、世界の救う旅に出るというストーリー。これはOVER THE MONOCHROME RAINBOWのオマージュと、いずれ来る舞台版OMRを上演する為の大筋だった事と、導入として非常に解りやすい素材であるドラゴンクエスト的な世界観を根本にしている。

ぼくのぼうけんのしょ第一作目は、60分の尺の芝居を合計20時間の稽古で仕上げた。稽古期間は6日間。役者は、以前より親交があり、一時期月イチでコント公演をしていた時のパートナーだった芹澤さんを筆頭に、とりあえず高校時代の同級生の栗山、後はその先日まで舞台で一緒だったメンバーをひっかき集めた10名ほど。とにかく予算と時間がないので、宣伝する為のチラシのデザインを栗山に頼んだ。今回が初ではなかったが、奴はデザインを依頼するとその日の晩にFAXを送り付けてくる。背に腹はかえられない。想像以上にヒドい画像が送られて来たがおかまいなし。

演劇の公演を打つ為にどうしても必要なのが「台本」である。
これがなければ役者は稽古が出来ないし、スタッフもオペレーションが出来ない。いわばロードマップのようなものなので、これさえあれば出来は置いといても、公演が成立する為には不可欠である。しかし、いと、まほろばは台本を全く用いない。俺は面白い台本が書けないのと同時に、作風的に机上で考える事と実際に動いてみた時の差が激しいので書いたものと全く違うものに仕上がるのもしばしば。書くのも時間が掛かるので、芝居は口伝で作ってしまった方が早い。段取りも判りやすく、覚えやすい台詞回しなので、役者は“覚える”という事をしなくて良い。その代わり自分でイメージして役やキャラクターを精製する作業になるので、ある程度の実力がないと成立しないというというのは語弊があるが、演劇の根本である“戯曲”がないのだから、その掛けた部分を役者が補わなくてはならない。役者にとってはかなりのハンデを背負った状態のスタートになるが、実力を見せるチャンスでもある。

昔から台本クラッシャーだった。役者として舞台に立つ時、書いてある通りにはやらず、自分なりのアレンジを入れ、時には演出も変え、時には演出家や脚本家と険悪になり、マジメな先輩役者からは本気で説教をされてもスタンスを変えなかった。今更ながら思うが、もし俺が演出家だったら俺みたいな役者は絶対に使いたくないって思うくらいヒドい有様だったと思う。今まで使ってくれた方には頭が下がる思いである。

芝居を作る上で出てくるアイデアは全て3歳の頃から培ったものだ。ごっこ遊び。幼少よりこの遊びに対して俺は人並みならぬ執念を持っていた。子供の心は純真無垢で残酷だ。例えばヒーローごっこをする上で、自然とヒエラルキーが生まれ、立場が上の子は良い役に。そうでない子は戦闘員とか、振られるとガッカリするような役。この“ガッカリする役”を振られた時点で、察しのいい子はやる気をなくす。ごっこ遊びにおけるキャスティングはそういう子供ながらの悪意が潜んでいるからだ。

当たり前のようだが、ごっこ遊びは自由である。その場の機転と空気作りで、いかようにも出来る。なんせ子供だから。そして、その場に居る子供の人間的な性質で、楽しくなる事も出来るし、逆に険悪にもなり、更にはイジメの温床にもなり易い。いくら子供であるとはいえ、ごっこ遊びは集団創作の原点なのだ。

俺はよくその“イヤな空気”になる前に、全員がテンション上がるような展開を即興で思い付いて場を持たせるのが得意だった。“ガッカリ役”には凄い秘密兵器がある設定を加えたり、マンネリしがちなヒーローと悪の立場を逆にしてみたり。ルールも時間制限もへったくれもないので、子供は飽きやすい。そもそもごっこ遊びは本人達が飽きたら終わりである。

普通、ごっこ遊びは幼児で卒業だが、俺は小学生になってもやっていて、この方式のごっこ遊びの魅力に取り憑かれたマニアックな小学校の友達や、その兄弟で賑わうようになった。ちょっとした劇団状態だ。

ある日、いつもよりテンションが上がりアツい展開をしたら全員ハマって終わるに終われなくなってしまい、クライマックスのシーンの頃には既に日が沈んでいて、お母さんが夕飯が出来たので迎えに来ても終わらせる事ができなくて

母『ごはんよーー!』
俺『まだだ!まだ終わっちゃいねぇえええ!お前ら帰ったら後悔するぞーーー!』
他の子『うおおおおーーーー!』
母『いいかげんにしろ!』

なんていう事はしょっちゅうあった。
やがて「ゆうきちゃんと遊ぶと面白い」という噂が噂を呼び、家の前に子供が50人くらい押し寄せた事もあり、地元では伝説となった。

大人が本気で取り組むごっこ遊び。現在のスタイルの原点はまさにごっこ遊びであり、今まさに同じ事を大人達に強いている。この時点で既に演劇と呼べるものではなくなっているが…

ぼくのぼうけんのしょ チラシ 画:栗山良介